孝明天皇の想い!幕末の尊王攘夷から公武合体への流れ

15世紀の大航海時代で世界に進出した西欧列強は、

やがてアジア全域を植民地化していった。
また、一部の植民地では

大規模農業の急速な開発によって、大量の移民政策をとった。
マレーシアでは、インド人や華僑にマレー人の複合民族国家が形成された。

そのため現在でも続く深刻な民族対立の原因となった。

そして、列強の魔の手が日本にもやってくる。

その時の天皇はどうする?

今回は幕末の天皇

孝明天皇のお話です。
Emperor_Komei

揺らぐ幕府の権威、 朝廷への期待

江戸時代、最初に幕府の政治に口を挟んだのが孝明天皇の祖父・光格天皇だった。

1787年(天明7年)の大飢饉の際に米価が高騰し、江戸でも民が打ち壊し(暴動)が起こった。
幕府の無策ぶりに愛想を尽かした民は皇室に助けを求めた。
人々が、御所の周囲を回り始めたのである。

その数、一日数万人に及んだ。
その姿を見た光格天皇は、幕府に救済措置がとれないか、と打診した。

朝廷が幕府の政治に口を挟むということは前例がなく、まさに前代未聞の事だった。
幕府は計画していた救助策に、さらに千石(15トン)の救い米供出を決定し、朝廷に報告した。

文化3(1806)年、4年には、ロシア軍艦が樺太、択捉(エトロフ)島の日本人居留地を襲った。

年々、幕府の権威が落ちる一方であった。

そんな中、本居宣長の国学や藤田幽谷の水戸学などで、幕府の統治権は天皇より委任されたものという考え方が広まっていた。

 

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「衆議公論」

1853年(嘉永6年)、ペリー率いる黒船艦隊が来航し、通商を求めた。

幕府は朝廷に報告するとともに、諸大名にも意見を求めた。
この時は、孝明天皇は「人心動揺により国内が混乱し、国体を辱めることのないように」という叡慮を伝えた。
天皇は、アメリカ船に水や燃料を提供する人道的な措置だけであれば問題ないと考えていた。

それに沿って幕府は翌年、ペリーと日米和親条約を結んだ。
1856年(安政3年)に着任したアメリカ総領事ハリスは、幕府に通商条約を結ぶことを提案した。

大名の中からは、朝廷の勅許(許可)を求めるべき、という意見が出た。
この時点では、幕府は勅許を得て、諸大名の異論も封じることができると考えていた。

幕府は、朝廷から「幕府に一任」の勅許を出させようとした。
しかし、孝明天皇の考えは違った。

「諸大名に意見書を提出させ、天皇のご覧に入れるよう」との意見でまとまった。

 

国内一致協力を

そして、彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)が幕府大老に就任する。
なんと井伊は、天皇の詔勅も一部大名の異論も無視して、日米通商条約に調印してしまうのであった。

井伊の調印に、天皇は激怒した。

侵略の危機に際して、「群議をつくし」、国内が、一致協力してあたるべきだ、というのが、孝明天皇の願いであった。

独断的な井伊直弼の条約締結で、幕府への非難の声が一気に高まった。

1858年~1859年(安政5年~6年)

井伊直弼は、それを弾圧する。有名な「安政の大獄」である。

批判する前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)、尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ)らを、親藩にも関わらず、処罰し、謹慎を命じた。

ほかにも公家や諸大名を謹慎させ、吉田松陰、橋本左内などの多くの志士を処刑した。
井伊直弼に対する非難は一気に高まった。

1860

井伊の強権政治に怒った水戸藩の浪士たちは、井伊直弼を江戸城の桜田門外で殺害するのであった。

いわゆる「桜田門外の変」である。

大老までが暗殺された事で、江戸幕府の権威は、ついに地に落ちた。

これにより、朝廷を中心に外国に対抗しようと尊皇攘夷の声が盛りあがっていのであった。

 

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「攘夷」か「開国後に攘夷」か

当時は、武力で外国を打ち払う攘夷論が盛り上がっていた。

幕府は、天皇の怒りに対して

「拒絶できないからやむなく条約を結んだまでで、軍事力が整えば、

鎖国に戻すのでそれまでは猶予して欲しい」と弁解した。

孝明天皇は、この弁解に対して、「心中氷解」した、と答えた。
孝明天皇の妹・和宮の将軍家茂への降嫁(こうか)を幕府側が願い出ると、いやがる和宮を苦労して説得して、それを受け入れた。

1862年 将軍 家茂と和宮 結婚

後の島津久光に意見を問う密勅では、現在の軍備状態で攘夷戦争をすることに疑念を表明していたという。
鎖国を守り、外国を打ち払う攘夷論

しかし、軍事力の差は歴然。

 

1863年 薩摩は薩英戦争で英国に敗北を喫するのであった。

1864年に長州も下関での英仏蘭米の四カ国艦隊との戦い敗北

やがて「攘夷」路線は無理だと考え「開国して国力を高めてから攘夷」路線に転換していくのであった。

孝明天皇も攘夷論から開国へと傾いていったと思われる。

 

孝明天皇の願い「公武合体」


 

孝明天皇のもう一つの願いは国民の一致結束であった。

朝廷と幕府と諸大名、すなわち日本国内が一体となって国難に当たるべきだと考えた。
天(あめ)がした人といふ人 こゝろあはせ よろづのことにおもふどちなれ

(天下の人という人が心合わせ、万事を共に考える仲間であれ)

元治元(1864)年の御製である。
この年は、長州兵が上洛して、京都守護職・松平容保率いる会津勢と京都市中で市街戦を繰り広げている。

幕府と尊王攘夷派の争いが行われていた。

天皇の願いは、虚しく届かなった。

 

大政奉還を目前に

次第に、幕府は諸大名から見放される。

それでも、公武合体の信念を曲げなかった孝明天皇は

倒幕を目指す過激な尊王攘夷派からは抵抗勢力とみなされるようになっていた。
そうした矢先

1866年(慶應2年)12月25日
孝明天皇は痘瘡(天然痘)で、突然、崩御された。

一部に毒殺説もあった。

満35歳、在位21年であった。
澄ましえぬ水にわが身は沈むともにごしはせじなよろづ國民(くにたみ)
(淀んだ水にわが身は沈むとも千万の国民を汚してはならない)

御詠年月は不明、この御製から国民の安寧を祈る孝明天皇の想いがわかる。
そして、

1867年 大政奉還

江戸幕府第15代将軍 徳川慶喜が「大政」を朝廷に返上するのであった。
もし

孝明天皇が自身の安楽を1番に考えてたら、日米通商条約を幕府に一任していだろう。
そして、日本は上海のように半植民地状態に陥ったかも知れない。

また、安易に尊王攘夷派の御神輿にのっていれば、倒幕の戦いに進んでいたかもしれない。

そして、内乱の隙を外国勢力が侵略してきたかもしれない。
幕末の動乱に

孝明天皇が幕府を見捨てなかった事が、国力を大きく損なうことなく
大政奉還まで無事たどり着けた理由かもしれない。

それが、隠れた名帝といわれる所以である。

そして

その後を継いだ明治天皇を中心に、欧米列強に侵略されずに

富国強兵の道を歩んでいくのであった。

国民の安寧を祈った孝明天皇は今、

京都の東山の天皇家の菩提寺・泉涌寺(せんにゅうじ)の 奥山 に眠っている。

 

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