やまびこ打線の由来 徳島池田高校の蔦文也監督の名言

 

高校野球でたまに聞くやまびこ打線とは
その意味や由来と、徳島県立池田高校と蔦文也の名言から戦略を知る

1980年代というのは、日本の景気がよく元気でこれからバブルに入っていく世相でした。
この年代の甲子園といえば池田高校と言うぐらいに印象深かった強豪打線です。

この小さな山間部の学校の野球部を、甲子園に導いたのは蔦監督の戦略眼が正しかったのが証明されたのではないでしょうか?

詳しくは、名言を参考に紹介できればと思います。

池田高校

徳島県の三好市池田町にある池田高校。
周囲は四国三郎こと吉野川と山に囲まれた山間部の学校
この池田高校に、野球部の指導者として赴任したのが蔦文也である。

池田高校野球部―栄光の軌跡 (B・B MOOK 945 高校野球名門校シリーズ 2)

池田高校野球部―栄光の軌跡 (B・B MOOK 945 高校野球名門校シリーズ 2)

 

蔦文也監督

蔦文也は1923年に徳島県に生まれ、徳島商業に進学後、野球部の投手として
甲子園にも出場しており、大学卒業後しばらくして1950年に東急フライヤーズに入団するも1年で退団し帰郷。

当時、池田高校が野球部の指導者を探していたのこともあり、
1951年、池田高校に社会科教諭として赴任。
28歳で監督となる。

ワシがノックバットを離すときは監督を辞める時。ワシは死ぬまで離さんぞ」 - 1987年春

県立高校の教員という立場上、移動がつきものだが、40年間池田高校の野球部監督を
行えたのは、当時の教育委員会が蔦監督の熱意に感化され、
池田高校の全日制と定時制を交互に異動させていたからだという。

1992年そんな蔦監督も、ノックが打てないほど年老いたのが
原因で68歳・監督就任40年目に勇退した。

2001年4月28日に肺癌のため病死。77歳だった。

葬儀には水野雄仁など多くの教え子が参列した。

 

監督の想い

山間の町の子供達に
一度でいいから

大海(甲子園)をみせて
やりたかったんじゃ

蔦文也

(1971年夏、甲子園初出場時。)

池田高校の校門横の石碑にも刻まれているそうだ。

この想い(名言?)から

全国を制覇を成し遂げるために、当時野球部コーチの
高橋由彦(よしひこ)先生にある相談をしたそうです。

 

攻めダルマ蔦さん―池田高校・蔦文也監督遠望

攻めダルマ蔦さん―池田高校・蔦文也監督遠望

 

戦略と名言

金属製バットの特性を見抜いてひたすら部員の上半身を鍛え上げる。

蔦文也監督は
「外野フライをホームランにする。飛距離を伸ばしてくれ」と相談。
学生時代レスリング選手だった高橋コーチが提案したのは

腹筋や背筋、握力など20を超える筋力トレーニング。

当時、筋力トレーニングは体の動きが硬くなり怪我に繋がるので野球会ではタブーとされていました。

しかし、それに挑戦し取り組んだ。

さらに、練習の8割を打撃につぎ込んだ。
攻撃に特化した野球スタイル。

毎日、高橋コーチの指導の下、徹底的に行われた。
金属製バットの特性を見抜いてひたすら部員の上半身を鍛え上げた。

名言
芯を外れていても腕力が強ければ飛距離が伸びる」「甲子園はいっぺん味をしめると忘れられへん。」

ワシはバントとかコツコツ当てていく野球は嫌いなんじゃ。野球に理屈はいらん。思い切り、のびのび打ったらええんじゃ」 1982年秋

蔦文也監督の名言どうり

1982年の夏の甲子園で池田高校は優勝する。
しかも、6戦85安打は大会新記録となった。

中でも、準々決勝相手は、早稲田実業(東東京)

投手は、のちにプロ野球選手になる荒木大輔投手を相手に全員安打

バットの芯から多少はずれても強烈な打球のためヒットとなっていくであった。

筋力トレーニングが生んだ強靭な肉体によるものだった。
蔦文也監督の戦略どうりであった。
結果は誰も予想しなかった14対2で池田高校の勝利。

ちなみに、この大会では元巨人軍の投手水野雄仁選手(当時2年生)もホームラン2本を放った。
ボールがピンポン球のようにスタンドに吸い込まれていくのが印象的だった。

 

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現在、50歳を過ぎた元巨人軍の水野投手の話では

昭和50年(1975年)ぐらいに金属バットに変わって、蔦文也監督が今までのバントの野球では勝てないという事で高橋先生と相談して、筋力トレーニングを始めた。

しかも、食事もちゃんと食べて寝ているので県外の大会にいくと、会う度に相手は猛練習でゲッソリしていて
池田高校ムキムキになっていたという。

まさか、こういう結果になるとは思わなかったという。

新しいこと(筋力トレーニング)に挑戦する!

池田という田舎町で思い浮かばなかった。

伝統校でなかったからしがらみ無く、新しいことに挑戦できたかもしれない。

蔦文也監督が常々行っていた名言が

人生は敗者復活戦

高校野球は3年間だ。

お前ら社会に出て行けば必ず失敗する。

だけど、目標をかなえたいという強い想いがあるから頑張れるんだ
どこか野球を教えながら、人生を教えてくれていた

水野投手いわく、その時には、わからなかったけどプロに入ってから大人になるとわかってきたという。

 

やまびこ打線の由来

 

池田高校が山脈に囲まれており、そして、甲子園に金属バットの音を途切れなく鳴り響かせた強力な打線。

池田高校の攻撃型の野球は、まさしく山間で途切れることなく鳴り響く
「やまびこ」のようだった。

それが、「やまびこ打線」の由来だそうです。

当時、小学生だった筆者はテレビを見ながら一人の好投手によって試合が運ばれる野球より
バンバン打つ池田高校の野球が楽しくて爽快で、しかたありませんでした。

1983年その強かった池田も、PL学園のKKコンビには力及ばず。

エースの桑田と4番の清原の1年生コンビに甲子園で負けることとなる
熱闘甲子園 最強伝説 Vol.1 ~「やまびこ打線」から「最強コンビ」へ~ [DVD]

そして、1992年に蔦文也監督が勇退すると池田高校も92年夏を最後に甲子園から遠ざかっていたのだった。

ところが、最近また池田高校が復活しつつある。

 

池田高校の復活の理由

なぜ、復活したのか?

その要因を現監督岡田康志監督(52)いわく
2000年に閉鎖していた「寮」の復活を上げる。

寮が復活した事で、早朝練習が出来るようになった。
6時10分に点呼を済ませると、授業が始まるまで間に基礎練習が出来る。

また 全体練習後も個人練習の時間を持つこともできる。
一日にすれば、たいした練習量ではないかもしれないが、毎日だと大きな差になる

また、集団生活することでチームワークの大切さを知る。

今年の甲子園にやまびこ打線は何処まで通用するのか
また、何処まで池田高校を全国に知らしめることが出来るのか?
故蔦文也監督のDNAを受け継ぐ球児たちの活躍に期待したい。


 

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