フジテレビといえばかつては、「月9」なる言葉を生み出し、月曜の21時には若者が町から消えてしまうという現象を作ったほど人気だったドラマで有名です。登場する女優や都会の生活にあこがれた人も多いはず。それが、今ではニュースで経営の危機で話題になっていますがそのフジテレビの歴史を見ていきます。
フジテレビの始まり:ラジオ局からテレビ局へ
フジテレビは、もともと「ニッポン放送」と「文化放送」という2つのラジオ局が母体となって生まれました。戦後、日本には公共放送(NHK)しかなかったため、政府は民間にも放送局の免許を交付し始めました。しかし、電波の数には限りがあったため、ラジオ局を作るためには「資金力」と「公共性」が必要でした。
ニッポン放送は、経済団体である「日経連」(現在の経団連)が中心となって設立しました。当時、共産主義の影響が広がるのを防ぐため、政府や企業が資本主義の価値観を広めるラジオ局を作ろうと考えたのです。一方、文化放送は、宗教団体と教育系出版社「旺文社」が共同で作った放送局でした。
やがて、テレビの時代が訪れます。日本初の民間テレビ局「日本テレビ(読売新聞系)」が誕生し、その後「TBS(毎日新聞・朝日新聞系)」が開局しました。そして1959年、3番目の民放として「フジテレビ」が開局します。フジテレビは、教育を重視する放送局として免許を取得し、「母と子のフジテレビ」というキャッチコピーでスタートしました。
フジテレビを支配した男:鹿内信隆の策略
フジテレビの経営権を握ったのは、鹿内信隆(しかない のぶたか)という実業家でした。彼は、日経連の幹部でありながら、巧みな手法でニッポン放送の株を買い集め、気づけば会社のオーナーになっていました。
当時、ラジオはブームで、ニッポン放送の価値はどんどん上がっていました。しかし、日経連に所属する企業の中には、経営が厳しくなり、持っていたニッポン放送の株を売りたがる企業も多かったのです。鹿内はその株を少しずつ買い取り、最終的には会社の過半数の株を手に入れました。
これにより、フジテレビは「公共放送」ではなく、鹿内一族の「私物」のようになっていきます。フジテレビの母体であるニッポン放送の50%以上の株を鹿内家が所有し、結果としてフジテレビも鹿内家の支配下に置かれることになりました。
フジテレビの黄金時代:鹿内春雄の改革
1980年代、鹿内信隆の息子・鹿内春雄(しかない はるお)がフジテレビの社長に就任します。当時のフジテレビは、「母と子のフジテレビ」というキャッチコピーのもと、比較的穏やかな番組が多く、それほど視聴率は高くありませんでした。
しかし、春雄は大胆な改革を行い、キャッチコピーを「面白くなければテレビじゃない!」に変更。視聴者が楽しめる娯楽番組を次々に制作し、フジテレビは大成功を収めました。
代表的な番組には、
「オレたちひょうきん族」(ドリフターズの人気を超える新しいバラエティ番組)
「笑っていいとも!」(タモリ司会の長寿番組)
「めちゃ×2イケてるッ!」(新感覚のバラエティ番組)
などがありました。これにより、フジテレビは視聴率トップのテレビ局として君臨し、1980年代から1990年代にかけて「黄金時代」を築きました。
また、春雄の権力は社内だけでなく、私生活にも及びました。彼はNHKの美人アナウンサーをフジテレビに引き抜き、後に結婚するなど、まさに「やりたい放題」でした。
突然の死とフジテレビの内紛
しかし、フジテレビの絶頂期に悲劇が訪れます。1990年、鹿内春雄はわずか40代で肝臓疾患により急死しました。後を継いだ父・鹿内信隆も翌年に亡くなり、フジテレビのトップが不在となります。
そこで、新たな後継者として白羽の矢が立ったのが、鹿内信隆の娘婿である鹿内宏明(しかない ひろあき)でした。彼は日本興業銀行(現在の三菱UFJ銀行の前身)出身のエリート銀行マンであり、フジテレビの経営改革を試みました。
しかし、宏明の改革は社内からの反発を招きました。彼の経営手法は「銀行的」すぎて、テレビ局の文化とは合わなかったのです。また、宏明が持っていたフジテレビの株は20%程度であり、社内の求心力も弱かったため、不安定な経営体制になっていました。
この状況を利用し、フジテレビ内部で「クーデター」が発生します。
クーデターと日枝久の台頭
フジテレビのクーデターを主導したのが、当時の幹部・日枝久(ひえだ ひさし)でした。日枝は巧みに社内の支持を集め、鹿内宏明を追い出し、自ら社長に就任します。
このクーデターにより、鹿内家の支配は完全に終わり、フジテレビは「日枝体制」へと移行しました。しかし、この新体制になった後、フジテレビは次第に衰退していきます。
その背景には、
2000年代に入ると、インターネットや他のメディアの台頭により、テレビの影響力が低下したこと
社内の派閥争いや、柔軟な経営方針を取れなかったこと
などがありました。
そして、このフジテレビの経営問題に目をつけたのが、「村上ファンド」と「ライブドア」でした。村上ファンドは、経営の非効率な企業の株を買い占め、改革を迫る「物言う株主」として有名でした。そこに、堀江貴文(ホリエモン)率いるライブドアが参戦し、フジテレビ買収を試みることになります。
①創業からクーデターまでの激動の道のまとめ
- フジテレビは、ニッポン放送と文化放送から生まれた。
- 鹿内信隆が巧みに株を買い集め、フジテレビを支配した。
- 鹿内春雄が「面白くなければテレビじゃない!」を掲げ、フジテレビの黄金時代を築いた。
- 春雄の死後、鹿内家の支配が揺らぎ、社内クーデターが発生した。
- 日枝久が新たな社長となるが、経営は徐々に悪化し、村上ファンドやライブドアが買収を狙うことになる。